代表院長紹介 - 宮城県 白石市 清原歯科医院



宮城県白石市の痛くない歯医者さん。清原歯科医院 歯科医師・歯科衛生士・歯科助手・受付求人募集

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〒989-0229 宮城県白石市銚子ヶ森10-39
ご予約は0224-25-1030まで

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代表院長紹介

院長 清原敏明

出身大学
日本歯科大学新潟生命歯学部

認定医取得
日本健康医療学会

ブログ(代表院長のココだけの話)

主な略歴

  • 昭和40年 宮城県白石市に生まれる
  • 平成8年 宮城県白石市に開業

趣味 IMG_1457_R.JPG

  • パソコン ・ 温泉

血液型

  • O型

初恋の人

  • ピンクレディ-の恵ちゃん

性格

  • 正直者で曲がったことが大嫌い
  • しつこく物事を探求する
  • 寂しがりやで涙もろく太っ腹

人生観 IMG_1459_R.JPG

  • 遠い先に自己の死を見ているのではなく、うしろから追ってきているものと認識している。だからいつも真剣

至福のとき

  • 目を閉じながら、 Carpentarsの歌を聴いているとき

好きな言葉

  • なかよし ・ 人生ただ汗流すだけでいい

現職

  • 日本健康医療学会 認定医
  • “塩田博文総義歯(入れ歯)快伝コース”インストラクター (歯科医師対象)
  • 日本健康医療学会 認定健康医療コーディネーター
  • 床矯正研究会 宮城県支部 事務局長(顧問 床矯正研究会 主幹 鈴木設矢先生)
  • スリープスプリント研究会 宮城県支部 支部長 兼 事務局長
  • 学校法人 北杜学園 仙台医療福祉専門学校 歯科衛生士学科 指導教員
  • 白石市立福岡中学校 歯科校医
  • 白石市立福岡小学校 公立刈田総合病院分校 歯科校医
  • 白石市立福岡中学校 公立刈田総合病院分校 歯科校医
  • 白石市立東保育園 歯科校医
  • 柴三郎歯科会会員
  • CDC歯学研究会会員
  • 浄土宗宮城教区青年協議会 役員
  • 当信寺 青年会 会長
  • 柳町若者会 会員
  • 白石商工会議所 会員
  • 公益財団法人 德川記念財団 賛助会員

前職

  • 宮城県歯科医師会 国保組合会 議員
  • 宮城県歯科医師会 学校歯科委員会 常任委員
  • 宮城県歯科医師会 歯科保健推進プロジェクト 常任委員
  • 日本医用歯科機器学会会員
  • 宮城県白石高等学校 歯科校医
  • 白石市消防団 白石分団 団員
  • 日本ヘルスケア歯科学会会員

院長おいたち

私は白石生まれの白石育ち、根っからの白石の土着民です。
白石第一幼稚園、白石第一小学校、白石中学校、白石高校、日本歯科大学新潟生命歯学部 と進みました。

【幼稚園~大学時代】

幼少の頃は、泣き虫で幼稚園に亡き祖父や亡き祖母に手を引いてもらい通園、門の前に近づくと手を握りしめ泣くような子でした。
私は「おじいさん子」でした。寝るときも祖父といっしょ。
祖父は『虎屋のこけし』の看板を掲げて、医院から車で数分のところでこけし製造業を営んでおりました。

小学生低学年の頃は、家の隣の工場で、こけしに顔を書くのを祖父に習っていたのを想い出します。
私はその時分、祖父のあとを継いでこけし業をしようと思ったこともありました。
祖父にどうして上手に描けるのかと聞きましたら、“おじいさんはおばあさんの顔を描いてるんだよ”という返事を今でも覚えております。

小学校高学年になり、泣き虫だった私は、人と話すことが好きな少年になりました。
今、思うと、人に対する愛情や慈しみという部分を、家族が自然に私に教えてくれたのかもしれません。
私は6年生の時、意を決して児童会長に立候補しました。
祖母に書いてもらった「たすき」を肩からかけ、体育館の演壇に立ち、全校児童の前で「立候補表明の挨拶」です。私は挨拶の最後に、“僕がもし児童会長になったら、電信柱に花を咲かせてみせましょう!”という言葉でしめました。そしたら投票の結果、会長に当選してしまったんです!
私はみんなの前で、「はなさかじいさん」になった気分で、電信柱に昇って造花でもつけてこようかと思いましたが、恐くて断念、現在も高所恐怖症ですから(笑)
そう言えば、数年前の中学の同窓会で、同級生が「電信柱」の話をし始めて、当の私はビックリでしたね!
覚えてたの!って・・・。

まぁ、そして中学に進学。
私の中学校時代は勉強一色でした。
勉強以外には何もなかったと言っても、言い過ぎではないくらいでした。
特に英語・数学は大好きでした。
成績はいつもトップクラスでしたが、周りからは「ガリ勉君」とか、なぜか「カッパ」と呼ばれてましたね(笑)

そして、高校に進学。
「将来は直接人の健康に携わる仕事をしたい!」と強く思い始めました。
[衣・食・住〕の食べるって大切だよなー。
でも、世の中、食べれない人もいるわけで・・・よし、歯医者になって、歯の勉強をして食べれない人を食べれるようにしてあげよう! 歯学部だ!と思いました。

日本歯科大学新潟生命歯学部に進学。
小学校と同じ6年教育です。
1・2年の教養課程は高校の延長線みたいなもの。
ドイツ語と哲学とかそんな大変じゃなかったですね。
でも3年生からは専門課程、5年生からは病院実習がカリキュラムに組み込まれ、6年生は国家試験の勉強もで、4年間はしんどかったです。
でも楽しい6年間でしたね。

【勤務医時代】

無事卒業して国家試験にも合格、でも家系が医者・歯医者関係ではありませんので、さてどこで働こうかと、卒業半年くらい前から考えてました。
大学に残って研究という選択肢もあったのですが、私は現場の臨床を自分の目で確かめたいと強く思うようになりました。運良く親友の同級生のうちが埼玉県で歯科医院をしてまして、私はそこに就職することになりました。
その医院は、入れ歯の患者さんがとても多く、勤務してました技工士さんに診療が終わってから、入れ歯造りの実際を見せて頂くうちに、入れ歯にハマっていったのです。
入れ歯の学問・臨床は面白い!
どうしてって、つめたりかぶせたりするのは、術者の腕の善し悪しって、患者さんからすればわかりずらいものです。でも入れ歯は違います。落ちてくる・痛い・噛めない・・・患者さんはこの入れ歯は・・・というようにお口の外に出して使えないことをアピールします。一番の腕の見せ所じゃないか!ってそう思いました。
それに私が歯医者になろうと思ったのは、先に述べましたとおりに、「食べれない人を食べれるように」という想い
でしたので、とても入れ歯に興味を持つようになりました。
まさに、『好きこそものの上手なれ』ということです。
そんな矢先に、歯科月刊誌で、「入れ歯づくりのコツのコツ」というタイトルで講演会が千葉県で開催されるのが目に止まりました。今でも覚えております。平成5年のことです。入れ歯の世界では著明な塩田博文先生(歯医者でこの先生を知らないのはモグリです)のご講演でした。当時の私は卒後2年目ということもあり、そんな全国的に有名な先生であることは知るよしもありません。ただ、何となく「コツのコツ」という響きに誘われるがごとく、千葉県に出向きました。確か駅を降りてすぐのホールのようなところでした。
その時の感動は今も肌で感じられます。
今まで自分の中でモヤモヤしていたものが明快になって、手が汗ばむ程でした。
私は講演終了後すぐさま家に戻り、ノートを整理するうちにまた疑問がわいてきました。
「もっと知りたい! これを解決せずして先には進めない・・・。」
そう思った時、私は塩田先生にお手紙を書くことを決意しました。
出身大学も違う、どこの誰かも知らない、そんな卒後間もない自分が教えを請うことができるのか・・・
でもその不安とか恥ずかしさは、入れ歯に対する興味に完全に打ち消されてました。
用紙で5~6枚だったと思います。書状をしたため、「ぜひとも診療を見学させてほしい」旨の希望も書いたのです。暫くしてから、塩田先生からお返事がきました。そのお手紙は今でも大切に保管しております。
丁寧に説明して下さり、末尾には「清原先生は卒後2年でここまで考察できているので、あと数年もすればそうとうなところまでいくと感じます」という記載がございました。
当時私は前の職場を退職して都内に勤務しておりましたが、月数回、塩田先生の医院(福島県)までバッグに石膏模型を入れて、診療見学を兼ねて通うようになりました。
ほんとうに充実した日々が続きました。
かくして、私は塩田先生がご講演に行く土地には必ず姿を現す『追っかけ』になりました(笑)

ただ、私は前述しましたとおり、高所恐怖症、飛行機で行くようなところはダメでした。
私は歯医者になった時から、もし自分が開業する時は、【半径10キロ以内の先生方には、絶対負けないものを
一つ持つ】ことをずっと心に決めてました。
これが「入れ歯」であるという確信を持ち始めました。
私の人生及び歯科臨床の師は、この先生です。
私はこの先生と巡り会うことがなかったら、さて、どうなっておりましたでしょうか・・・。

私はこの巡り合わせを【天命】だととらえております。
ただただ、巡り合わせに感謝です。
今度は、情熱のある若い歯科医師に塩田先生の教えを伝えていくのが、今の私の立場だと思います。
私は十二分な教えを受けました。私は自分のとこの勤務医の先生にも真剣に教育をして参りたいと思っております。又、塩田義塾実習コースのインストラクター(歯科医師対象)としても同様です。それが塩田先生に対する恩返しかもしれません。
私の親は小学校の教員でしたので、教えることには、遺伝でしょうか、私は労を惜しみません。
平成7年、私はこれまた歯科月刊誌に、《小児の矯正臨床》を連載している安田公年先生(埼玉県ご開業)の
掲載論文を見て、お手紙を書いたのです。
安田先生は、蕨の駅前で私と会ってくれました。
偶然にも大学の先輩後輩の間柄でした。(だいぶ年齢は離れてますが)
来年平成8年に実家に戻り開業する旨を話しましたら、「田舎の歯医者で終わるのか、月最低1回は都会の風にあたりにきては・・・」というお誘いがありました。
開業年度と重なり、多忙な時期ではありましたが、月1のスタディークラブに入会させて頂きました。
あれから随分と年月が流れましたが、このクラブには今でも所属しておりまして、月1の勉強会に出席しております。このクラブには全国的に有名な先生方が多数在籍しておりまして、今でもいい刺激になっております。
私は仕事に関しては、かなり執着するタイプです。
宮本武蔵の歯医者版みたいな感じですね(笑)

【開業してから】

平成8年開業。
当時はチームメンバー(うちでは社員をチームメンバーと呼んでます)が3人でした。
現在は、多くの患者さんの絶大なる支持を頂戴致しまして、チームメンバーも増えました。
私は常にチームメンバーには、「患者さんが自分の家族だったらどうするか!」を頭において対応するように話しております。
医療従事者こそ、返事や挨拶といった基本的な生活習慣に対する親の躾がなっていなければ、患者さんに福音を与えることは到底できません。
最初から価値観が違えば、それは砂上の楼閣に等しく、数年持たずに退職となりますでしょう。
ですから私はこれまでも、仕事云々の前にまず【☆★☆そのチームメンバーが素直であるか否か☆★☆】を最重要視してきましたし、これからも変わりません。私の哲学です。
開業してから現在まで、あっという間でした。
その間、塩田義塾実習コースのインストラクター(歯科医師対象)に就任、床矯正研究会宮城県支部事務局長とスリープスプリント研究会宮城県支部支部長兼事務局長の大役を、共に東京本部から仰せつかり、開業当初とはだいぶ環境が変わりました。
今の私はとても充実しております。
仕事が好きなんですね。
私の求める医療とは、患者さんの一生涯を念頭において、健康の手助けをしていけるような存在であることです。
卓越した先人から学んだこと、それは、【必要最低限の医療介入で、いかにして最大限の治療効果を得られるか】ということを常に意識するということです。
【歯科医師は私の天職】であります。
【一生臨床、一生勉強】が私の求める姿。
常に感謝の気持ちを忘れずに、医療道に邁進していきたいと思います。